2005年08月07日

自動車文明から自転車文明へ移行できるか

そういえば体育会系でした

 今はマウンテンバイクやら折りたたみチャリでのんびりとしか走りませんが、大学時代にはサイクリング部に入って、夏休みにはよく信州や北海道、東北地方へとキャンプ旅行をしていました。

 またノンストップタイムトライアルで6百キロメートルとか走ってみて、意外と人間というのはタフなもんだなあ、と思っていたことがあります。(自分の足で42キロを走るというのも、そちらの方がとてもできそうにないと思うわけですが、それは僕が試してみたこともないからでしょう。)

 その当時イバン・イリイチの「エネルギーと公正」という本を読んだことを思い出します。(先日「石油ショック時のエコライフ提案を見返す」で紹介の国民生活審議会の中でも誰か委員の意見でイリイチに触れていました。)
 イリイチの産業社会批判で読ませたのは、自転車と自動車の違いということで、持つものと持たざるものの間の不平等を高める自動車と、人間の可能性を等しく引き出せる自転車は、同じような技術で構成されていても別の種類の機械だ、という主張だったかと思います。

産業化のジレンマ また、道路はもともと人が出会う場であり社交場だったのが、自動車のために囲い込まれ、人は歩道においやられ(日本では自転車まで歩道に押し込まれ)、奴隷の代わりに豊富に使える石油資源があるお陰で専用の高速道路もでき(はては飛行機と飛行場システムまでできて)高速で高価な交通システムが主流となっていき、進歩すればするほど移動の不平等を広げることになりました。
 一家に一台ヘリコプターだとか、田舎は自家用セスナがないと暮らしていけないのよ、という世界になると、ますます移動の不平等が増え、大半の人の暮らしはさらに「貧しく」なるという逆説が出てくるという産業社会批判で、その不平等を抑える(=高速な乗り物の移動速度を制限する)ことが社会全体の福利厚生を上げるためのミソだ、という主張でした。

 そして、みんなが自動車を使うため、みんなが渋滞の中で耐える以外なすすべがない多くの人よりも、自転車で移動できるという(今でいうスローライフな)人こそが豊かな人なのであり、ほとんどの人は車を買うために人生のかなりの時間、労働に費やしているので、歩くのと変わらないくらい移動のために時間を費やしているという趣旨の(今でいうLCAのような)ライフ『タイム』アセスメントによる批判をしていました。

 当時としては、まああまりにもラディカルかな、という印象も持っていました。

合意形成による交通政策

 こういう話をすると、それはやりたい人がドロップアウトして自転車に移行していけばぁ、という反応を受けると思いますが、政策とは優先順位を何におくかの問題を焦点化し、関係者の間で合意形成を図ることですから、自動車と分離された自転車専用道をどれだけ地域の基礎道路として重視するか、といった不平等を抑える政策にこそ合意形成の可能性があることも大いにありえます。

 そして、地球温暖化を食い止められる「持続可能な社会」を構想するに当っては、自動車文明を何で置き換えるか、というレベルの議論もしなければならないということが、このアジェンダ設定の必要性を示すものだと言えるでしょう。
 もちろん化石燃料の代替エネルギーが何かという議論と同じように、自動車文明の代替がたった一つということはありえず、手持ちの手段の総動員が必要となるでしょうが。

 海外の事例

 海外では、ワールドウォッチ研究所ではよく自転車の生産量をウォッチして自動車の代替品と見なしていますし、ヨーロッパの持続可能な交通政策の中では、自転車専用道を通勤用の主な動線として整備するというのが挙げられています。

環境にも肥満防止にも自転車が役立つ
(これはアースポリシー研究所の方の記事ですが)

 イリイチの議論に倣えばドイツのアウトバーンへの速度制限をどこまで政策として取り組めるのかが肝要ということになりますがそこまでは議論されているかどうか?

 また、その前に?公正を言うのであれば飛行機をどうするのか、という論理整理をしなければなりません。
残念ながら、現在の京都議定書の中では国際路線の航空と船舶については総量規制の対象にすら入っていません。
 移動の自由に対して、物理的な制約と同じような環境面の制約条件があることを、そしてどのように不平等を誘発しない形で制約していけるかについて合意を取ることが必要でしょうが、いったいどのように進めていけばよいのでしょうか。
 


posted by おぐおぐ at 11:32| 交通政策 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。